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著書:スポーツビジネス15兆円の到来
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第1章
スポーツビジネスは有望か?

──『日本再興戦略2016』で描かれる未来

これまでの日本のスポーツ──体育、ボランティア、アマチュアリズム

ここまで、スポーツ産業の事業環境が今とても盛り上がっていて、この先も有望だという話を書いたが、ここで、これまでの日本のスポーツが歴史的に見てどうだったのかということに少し触れておきたい。大きな流れを振り返って整理をしつつ、今後どうなっていくのかということを改めて示したいと思う。ここでのキーワードは「体育」「ボランティア」「アマチュアリズム」だ。

これまでの日本のスポーツはその管轄が文部科学省だったこともあり、産業というよりも学校教育という側面が強かった。そもそも、明治政府の方針であった「富国強兵」からスタートし、昭和の時代に至るまで、心身ともに健康な兵隊予備軍を作り出すための教育としての「体育」が、日本における「スポーツ」の基礎となってきたのだった。そして戦後はもちろん戦争とのつながりは意識されてこなかったものの、学校の「体育」の授業でスポーツを行うということについては、特段何の変更もされず、現代に至るまでずっと変わらずにそのまま続いてきた(ちなみに、今でも学校で「体育」の授業がある)。日本にいるとこれが当たり前のように受け止められているが、これが世界的に見ると、かなり珍しい現象であるらしい。

学校の授業として「国語」や「理科」とともに「体育」が行われる──。こうした状況のせいか、もともとのスポーツの語義の由来でもある「楽しむ」とか「遊び」といった概念が、日本国民がスポーツを嗜むにあたって、その深層に根付いていない、理解されにくい原因にもなっているようである。

そして、この学校教育における「体育」によるスポーツの発展が、これまでスポーツの産業化にとって非常に大きなネックとなっていた。どう考えても、教育の側面とビジネスの側面というのは相性が悪い。これまでのスポーツ界は教育的側面が強かったために「スポーツでお金を稼ぐのは悪いこと」といった前提が、いつのまにかみなの心の中に埋め込まれてきたのである。その証拠に、私がこれまで接してきたプロ選手もみな、お金の話が苦手で、面と向かって話をすると、何となくお金の話題は避けたいといった本心が透けて見えることが多い。子供の頃から「お金の話は汚いというような思い込み(教育の成果でもある)」が心のバリアとしてあって、最初から考えることを妨げているようだ。スポーツの産業化を目指すのであれば、その大切な構成員であるアスリートの考え方を、まずは変えていかなければならない。

スポーツの産業化がうまくいかなかったということを、もう少し説明しよう。ここでは、読者のみなさんの身近なところでの学校とスポーツの関わりとして、「部活動(運動部)」を取り上げてみたい。

私もそうだったが、子供の頃から一生懸命に部活動を行ってきたものの、今思えば部活動はいわゆる課外活動であり、学校の正規の活動としては認められていないものだ。そして、部活動の顧問の先生や部長の先生は、スポーツを教える人としては素人であることが多い。そもそも、先生全員がスポーツ指導を専門的に学んできたわけではないので、ある意味当たり前のことである。また、学校の先生が行う部活動の指導というのは、通常の授業を教えたあと、そのまま学校に残って練習に参加することで成り立っている。つまり、部活動の指導は、課外活動であり正規の授業ではないので、部活動の指導は先生方からすると必然的に「ボランティア活動」となり、そこに新たな報酬は発生しない。さらに、部活動は平日の練習だけでなく、土日にも練習試合を行ったり大会へ参加したりするが、これも同じくボランティア活動である。当然、残業代や休日出勤手当も出ない。このようにして、学校の先生によるスポーツ指導=ボランティアという構造ができ上がっていった。

一方、先生方の教え方においても、そもそも学校の授業における「体育」でスポーツが育まれてきたので、その延長線上として部活動においても「体育」における教え方が踏襲され、前述のような理由から、そこにはどうしても軍隊的な性格が混ざってしまう。上の意見には逆らえないなど、内容としては有無を言わせぬような力による指導となってしまうのである。そして教える側、教えられる側ともに、必然的に「お国のため」から発展した「学校のため」というような、奉仕の精神も求められることになる。

このように、教える側と教えられる側がともに教育が前提であり、またボランティアが前提なので、スポーツでは自然とプロではなく、アマチュアリズムが良しとされてきたのである。

学校の部活動以外でも、最近は小学生や中学生を対象として、地域に野球チームやサッカーチームやバスケットボールチームがあるが、そこの監督やコーチはだいたいにおいて参加している選手の親たちが務めることが多い。その際も指導は無報酬(ボランティア)である。報酬が発生することはほぼない。そして、練習試合や大会に参加する際の移動は、もっぱら選手の親たちが車を出し合って融通している。指導に報酬が発生しないので、地域のスポーツチームのマネジメント形態はここでもプロではなく、アマチュアということになる。

つまり、学校の部活動でも地域のスポーツチームでも、スポーツの現場ではボランティア精神やアマチュアリズムがより大事だとされてきた。裏を返せば、そのような精神がなければ、日本のスポーツは成り立たなかったということでもある。それらは、精神性という意味ではとても大切なことであるが、ことスポーツの産業化ということになると、やはり心理的な足枷になることが多かった。このような理由で、これまでスポーツの産業化はあまりうまくいかなかったのである。

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スポーツビジネス15兆円時代の到来

森貴信著/平凡社新書

長らく競技者(選手)のものだった日本のスポーツは、新しいステージを迎え、今後より人びとの暮らしに密着したものになる。すでに起こっている事例を挙げつつ、人・モノ・カネの動きの実際と予想される未来を、スポーツビジネスの最前線で活躍する著者が語る。
そもそも、スポーツは仕事(の場)となりうるのかという疑問に発し、政府が提言する『日本再興戦略2016』のうち、国が〈スポーツの産業化〉を強く後押ししている実態を紹介、その意味をていねいに分析することで、今後、劇的な経済効果を促す異業種との交流や他産業の参入、さらにはスポーツイベントに連動する生活の場と習慣の変化など、スポーツというフィールドに秘められた大きな可能性に迫る。
――進学、就職・転職から共生の場の創出まで、新時代の社会のかたちが見えてくる。